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●東南アジアからの便り⑩:ゼミ生のエッセイ「マカッサルで考えたこと:インドネシアで感じる文化の違いと人間関係」



東南アジアに留学中の学生からエッセイが届きました。普段は学術的な文章を書く練習をしますが、このエッセイは自分の感情や思いをもとに書かれています。ゼミでは稀なことですから、皆さん楽しんでください!



今回は3年生の佐々木健悟さん、第2弾です。



「マカッサルで考えたこと:インドネシアで感じる文化の違いと人間関係」


 マカッサルでの留学生活も早くも半分が過ぎた。ようやく少しずつこちらの生活にも慣れてきた。毎日大変刺激的な日々を過ごしている。今回もインドネシア文化について感じたことを書くが、あくまで私の主観であることと、「インドネシア人は」や「日本人は」と主語が大きくなってしまうことをあらかじめ断っておきたい。絶対的にすべての人に当てはまることなどない。

 インドネシアには「jam karet」(ゴム時間)という概念が存在する。インドネシアの人々は、時間がゴムのように伸びるものだと考えている。彼らにとって、約束の時間になっても来なかったり、予定が直前にキャンセルになったりすることはごく普通のことなのだ。大学の授業は基本的に時間通りに始まることはないし、もっと言えばそのまま先生が来ないこともある。またインドネシア人に「予定を決める」という感覚もあまりないように思う。日本でインドネシア語を学んだときに“besok”は「明日」だと学習した。しかし実際この“besok”という単語の訳は「明日」ではなく、「明日以降の全ての日」を指すように思える。それくらいの時間的感覚なのだ。私のインドネシア人の友人は「もし10時に会議があったとしたら、インドネシア人は11時に集合し会議が始まるのは12時だよ」と笑いながら話していた。ただこれは決してインドネシアの文化が劣っていると言いたいわけではない。もちろん逆もまたしかりだ。「日本は時間に極めて正確だからインドネシアより良い」とか、逆に「インドネシアはのんびりしていて、心に余裕があって、日本より良い」とかいうのは極めてナンセンスだ。それぞれ違った文化がある。それ以上でもそれ以下でもない。

 とはいえ、私は日本人なので待ちくたびれてしまうことがほとんどだ。待っている時間、いわゆる「スキマ時間」を有効に使おうと、本を持ち歩いたり、パソコンで作業をしたりしているのだが、これを見た私の友人は「空いた時間を何か別のことに使おう」という発想が日本人っぽいと言っていた。彼らは、急にできた待ち時間をただただ、ぼーっと過ごしたり、友達とたわいもない話をしたりして簡単に時間を潰すことが出来るように私は感じる。また、私が日本で見られる電車の「遅延証明書」について説明すると、とても驚いた顔をしていた友達の顔が忘れられない。「何のためにそんなことを?」くらいの勢いだった。日々ここまで大きな文化の差を感じる中で、違う文化の人々と共存するための鍵は何かと考えさせられる。机の上だけではわからないことが、すこし一緒に話しただけではわからないことがたくさんある。月並みな表現だが、世界は広いなと、まだまだ知らないことだらけの世界が嬉しいような悲しいような、そんな気分になってしまう。

 その一方で私はインドネシア人に親近感を覚えることもある。皆さんは、「tidak apa-apa」という言葉をご存じだろうか。これは「大丈夫」という意味で、インドネシアの人々はしょっちゅう「tidak apa-apa」と言っている。何か問題があっても「気にしなくても、大丈夫だよ。」くらいの感覚で使っているように思える。ただこの言葉の面白いところは、実際「tidak apa-apa」でなくても「tidak apa-apa」なのだ。例えば、ここインドネシアでは、学生が遅刻してきても教授が怒ることは滅多にない。学生が謝っても教授は「tidak apa-apa」と返すだけだ。しかし表情から見て少なくともその教授がいい気分でないことが、私にはわかる。ただ叱ることはない。逆に授業が教授の都合で突然キャンセルになっても、学生たちは「tidak apa-apa」というに違いない。このようにインドネシアの人々はにおしゃべりでいつも笑顔ながら、実はバランスを上手くとりながら生活しているように感じる。

私はこの考え方がすごく好きで、日本にいる自分もまさに同様だ。私は人間関係を「調整」だと考えている。「思ったことははっきり言う」は必ずしも正義ではないと思う。例えば自分が多少嫌な思いをしたとしても、「おそらくどこかで自分も相手を嫌な気分にさせているし、これからもさせてしまうだろうから、お互い様」くらいに考えて、特に指摘したり注意したりはしない。(出来ない、が正しいかもしれないが。)もし指摘や注意をするとしても、言葉をよく選ぶ。こうやってお互い「調整」しながら、大きな争いは避けるのが良いと考えている。もし自分ばかりが調整していると感じるのならば、その関係性はうまく終わらせるべきだ。「言いたいことがあるならはっきり言うべきだ」とか「思ったことは言ってしまう」という考えの人からは「何をぬるいこと言ってるんだ」と思われるかも知れないが、私からすると調整が出来ないのかなと思ってしまうことが多い。

そのため、私はインドネシア人の人間関係に親近感がわく。そしてこれを考え始めると、思い起こされるのが、エドワード・T・ホールの「高文脈文化」と「低文脈文化」だ。日本もインドネシアも「高文脈社会」に分類されたはずだ。言葉そのものの意味だけでなく、行間や表情にも重きが置かれるインドネシアに、日本人である私はどこか共感する部分があるのかもしれない。


クラスメートとの一枚


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