●東南アジアからの便り③:ゼミ生のエッセイ「マカッサルで考えたこと:Terima Kasihの精神」
東南アジアに留学中の学生からエッセイが届きました。普段は学術的な文章を書く練習をしますが、このエッセイは自分の感情や思いをもとに書かれています。ゼミでは稀なことですから、皆さん楽しんでください!
今回は3年生の佐々木健悟さんのエッセイです。
「マカッサルで考えたこと:Terima Kasihの精神」
私は現在、インドネシア語や文化、異文化理解などを学ぶためにスラウェシ島、マカッサルにあるハサヌディン大学に留学をしている。現在留学が始まって早くも2週間がたったところだ。今の気持ちを忘れないためにエッセイとして書き残したい。
留学開始から2週間、ある程度予想がついていたことではあるが、それでもきついことは多い。先に断っておきたいのだが、これから述べることは「帰りたい」だの「しんどい」だの弱音を吐くのが目的ではない。例えばトイレも日本とは違う。ボタン一つ押せば水が出るようなウォシュレットではない。自分にとって当たり前であった日本のトイレが高い技術であるかを痛感させられる。トイレについて熱心に研究をしているゼミ仲間がいるが、彼女がなぜトイレに惹かれるのか、今なら理解出来る気がする。他にもシンタ―ネット環境やインフラもまだ脆弱な部分はある。虫との共存も必要だ。「日本での当たり前」にもっと感謝出来る人間でありたいと強く思う。しかし、だからといってインドネシアが劣っていると感じることはない。
言語の壁も当たり前ながら痛感する。ここで日常会話をしたり、物を買ったりすることは出来ても、正直授業のインドネシア語には到底ついていけていない。また、同じイスラームの国家であることが理由なのか、寮には中東の国出身の留学生が多い。(パレスチナ、パキスタン、ヨルダン、イエメンなど)彼らは医学や法律など自分の専門分野を英語で学びに来ており、インドネシア語を話さない。それゆえ寮の友達とは英語で話している。彼らは中東訛りの英語を話すこともあり、なかなか聞き取れないことも多く苦戦している。
このような状況ではあるものの、私がなんとかここで生活できている理由はひとえに「人々の優しさ」である。ここでは道を歩いているだけで人々が話しかけてくれる。「どこからきたの」「どこへいくの」「何かこまっているのか」とすぐに話しかけてくれる。こちらが拙い英語やインドネシア語を話すと一生懸命意味をくみ取ろうとしてくれ、「なんとかしよう」としてくれる。授業でも先生やインドネシア人のクラスメイトが常に理解を助けてくれる。寮でも様々な違う国籍の人が「よく来たな」という歓迎してくれる。ここでは初対面の場合、必ず名前と出身国を名乗り、握手をする。日本では見られない光景だが、今ではすっかり慣れて既にたくさんの友達が出来た。こんなこと言ってもいいかわからないが、コロナで家からオンライン授業を受け、全然友達の出来なかった日本での自分とは雲泥の差だ。(もちろん中央大学での友達もかけがえのない存在だが。)この優しさは「インドネシアの当たり前」なのかもしれないが、こちらの当たり前にも絶対に“terima kasih”を忘れない人間でありたい。インドネシア語でTerimaは「受け取る」、kasihは「優しさ・慈悲心」という意味だ。
最後にここ2週間で一番心に残ったエピソードを紹介したい。寮の部屋に来てすぐ、隣の部屋のTashfeenというパキスタン人が尋ねてきてくれた。(彼とも英語で話している)「僕が君の隣人であり、今日から友達だ。何かあったらいつでも呼んでくれ」そんなことを言ってくれた。その後まず生活用品が必要なことを察してか、「明日はスーパーを教えてあげる」と言ってくれた。次の日彼は実際にgojekの使い方やスーパーマーケットの場所を教えてくれただけでなく、一緒にスーパーまでついてきてくれ、「どんな物が必要か」や「これは他で買った方が安い」など事細やかに全てを教えてくれた。申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいだった。一通り買い物が終わり、部屋に戻った私はとにかく一生懸命お礼を言った。すると彼はすごく笑顔で「何も申し訳なく感じる必要はない、これは僕の義務でありまた幸せでもある」と言ってくれた。その後彼はすごく笑顔で、でもどこか真面目でまっすぐな目をしながら、イスラームの教えを教えてくれた。以下は私の聞き取れた一部だ。「ムスリムにとって、困っている人や隣人がいたら助けるのは義務なんだ。そうでなければ死後に地獄にいってしまうからね。そしてちゃんと彼らを助けたら、天国に行けるんだ。幸せなことだよ。僕はただアッラーの教えに従っただけなんだ」これを聞いたとき私はすこし泣いた。もともとネガティブで鬱癖のある私にとって、心が洗われているような感覚であった。ゼミでイスラームのことを学び、彼らの教えを少しは理解をしているつもりでいたが、全くそうではなかった。実際にその優しさに触れて初めて本当に彼らのことを理解出来たかもしれないと感じた。これだけでも留学に挑戦した意味があるといっても過言ではない。それと同時にこんなにも優しい人たちの宗教が差別や偏見に晒されていることを思うと、本気で悔しく思った。本当に何をしているのだろう。そんなことを思った。
留学は始まったばかりだ。先述のようにまだまだ、厳しいことは多い。だが、すべてを吸収し、成長した姿で日本に帰れるようにしていきたい。
(寮での記念写真)
(隣人のTashfeenと)
Comments